ぽんぽこ日記

プログラミング、読書、日々の生活

かけだしエンジニアの頃(入社まで)

先日、勉強会仲間のdaiksyさんが、ご自身の転職経験について書かれていて話題になりました。

転職活動で心を病まない方法について | 言葉をポッケに持ち歩こう

ちょっと触発されたので、自分も新卒の頃の話を書いてみたいと思います。特にためになる教訓とかはありませんし、もうずいぶん前(20年以上前)の話なので、余り参考にもなりません。まあ昔のIT業界ってこんな感じだったんだー的な読み物として、お暇なときにでもどうぞ。*1

入社まで

1989年、時代はいわゆるバブル景気のまっただ中、僕は関西の中堅私大の文系学部に通っていました。世間一般のイメージから言うと遊んでいる大学の筆頭みたいなところでしたが、僕の所属するゼミは心理学の応用っぽいことをやっていたので、その学問の性格上、わりと実験やレポートに追われる日々でした。実験データを統計処理する必要上、計算機センターのメインフレームで動く統計パッケージ(SAS)を使ってちょっとしたプログラムを書いたり、PCではTURBO PASCALを使って、心理学の実験に使うためのゲームっぽいプログラムを書くようになったりと、プログラミングに熱中する毎日でした。

4年になるとおきまりの就職活動がはじまりました。漠然とプログラミングの仕事がしたいと思っていましたが、OB訪問で訪れる先輩の話を聞いていると、文系の肩書きで就ける職種はほとんどが営業らしく、自分の仕事を楽しそうに語る人はいませんでした。バブルの絶頂期という時代を背景に、同級生たちがネームバリューのある企業に内定が決まっていく中、どうしても通り一遍の就活に労力を使う気にはなれず、1,2社受けたところで就活を辞めてしまいました。最近の学生さんから見たら贅沢な話だと思います。

当時も、すでに、いわゆる日本独特の職種であるSEの需要はあるにはあったのですが、プログラミングが好きだっただけに、いろいろ耳年増にはなっていて、いくらコンピュータに関わる仕事と言ってもメインフレームで動作する事務系のプログラムをCOBOLで書くような仕事はやりたくないと思っていました。

そんなこんなで典型的なモラトリアム学生になってしまい、何をするでも無く漫然と、なにもせず悶々とした日々を過ごしてしまいました。当時ニート・フリーターという言葉は存在せず(すくなくとも一般的では無かった)、まして好景気のさなか、狭い世界観しか持っていなかった当時の自分にとって、就職しないという選択肢は思いつかなかったので、年が明けるとさすがに焦ってきました。

何しろインターネットが無かった時代なので、新卒向けの就活シーズンがおわると企業社会との接点は完全に閉ざされてしまったように思えました。

そんなとき、ふとコンビニに立ち寄ると、「Tech B-ing」や「デューダ」といった中途採用向けの就職情報誌が売られているのが目に入りました。手に取ってみると結構分厚い。立ち読みでぱらぱらめくっていると、新卒可の会社もちらほらと目に付き、これだけ分厚ければおもしろいことやってる会社も見つかるかも、と思い、ダメ元で探してみることにしました。

ところで、当時PCゲームにはまっていた僕は、ゲーム雑誌「ログイン」誌を愛読していました。僕はこの雑誌で、「世界のコンピュータちゃん」という先端的なコンピュータを紹介する連載を毎号楽しみに読んでいました。

SONYのUnixワークステーションNEWS

雑誌「ログイン」の切り抜きから、SONYのUnixワークステーションNEWSの回

この連載によると、どうやら時代の先端を行くコンピュータというのはUnixが動くことが条件で、MS-DOSもUnixを大幅にダウングレードしたもの(<=当時の理解です)ということで、Unixが動作するワークステーションは個人では手が届かない値段だったので、IT関係の仕事するなら、Unixが触ることができる会社に入りたいと思っていました。時は1990年、Appleを追われたスティーブ・ジョブズが新会社を立ち上げ、NeXTを発売した年でもありました。

NeXTのリリースを報じる雑誌「ログイン」の切り抜き

同じく雑誌「ログイン」の切り抜きから、NeXTのリリースを報じる記事

そんなわけで、Unixというキーワードで求人雑誌のページをめくっていったところ、大阪ではほぼ唯一「応用技術株式会社」という会社の広告が見つかりました。

しかも「新卒も同時募集」とあるでないですか。求人広告にはUnixというキーワードと、AI(人口知能)という言葉も並んでいたのも魅力でした。

電子メールは無い時代、連絡手段は電話しかありません。はたしてこんな時期にただの学生が相手にしてもらえるのだろうか。。。?震える指で電話をかけたら、あっさり面接してくれるとのこと。

自分の記憶が正しければ、面接の顛末は次のようなものでした。まず最初に人事担当の人が出てきて、その方はKさんといって、入社後もいろいろとお世話になるのですが、みるからに人情味あふれる熱血漢と言った印象の方でした。まずは会社の説明をしてくれて、印象に残っている点を2つ記憶しています。

一つは、この会社が同規模の他のIT開発会社と違う点として、大企業の研究案件など他の会社では受注できないような先端的な仕事を一次請けしていることを強調していたことが1つ。

もう一つは、ITの世界は、技術領域によって学習曲線のようなものが大分違うらしいので、その技術の特性をふまえて勉強すると良いみたいだよ、と言う話でした。

その人によると、Unix上でC言語を使ってネットワーク系の案件を担当しているエンジニアは、Unixやネットワークの世界は玉ねぎの皮を剥ぐようなかんじで、少しづつ理解が深まっていく一方、Lisp,Prolog系の領域は、やってやってもなかなか分かった気にならないんだけど、辛抱強く続けていくと、ある日突然「開眼」したように頭の中でいろんなことが結びついてクリアになるらしい、っていう話が印象に残っています。

今にして思えばUnix・ネットワーク系はまさにそんな感じですべてが階層的に設計されているからその通りだし、Prolog,Lispといった抽象性が高い言語は、言語設計の背景にある計算モデルに気づくかどうかが理解のキモだと考えるとこの話は説得力あったよなーと思います。

開発体制として、非常にいろんな種類のコンピュータを自社で持っていて、基本的に自社内で開発をしているということも説明してもらいました。

そのあと、開発者が仕事をしている別のビルに通されて、一通り職場を見せてもらいました。このとき印象に残っているのは若手のエンジニアの方が私物のMacintoshPlusを持ち込んでいて、なんだか自由な会社だなーと思ったのを覚えています。

当時のコンピュータは大量の電力を消費して、その分熱を発生するので、大型のコンピュータは年中冷房が効いている「マシンルーム」という部屋に設置されていました。

その日は、これまでに見たこと無いような業務用感満載の大型機が立ち並ぶ様子に圧倒されたまま、家に帰りました。

この辺、記憶が定かで無いのですが、少ししてから内定通知と入社の意図を確認され、正式に手続きを行ったとおもいます。

何しろこうしたやりとりをしたのはすでに'90年の3月に入ってからのことだったので、あっという間に時間が経ち、入社式を迎えました。(つづく)

追記:

入社後の話はこちら

ponpoko1968.hatenablog.com

*1:そうとう昔の話でもあるし、いまなお成長を経て健在なようなので、会社名も出すことにします。

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